あわいにてゆらぐ生き方

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境界をゆらがす

神道に「魂振り」があります。振ることで邪気を払い、魂を活性化します。実体が揺れ動くことでその境界が曖昧になり、固執していたものが取れ、活性化します。「ぷるぷる気功」もその類ですね。

答えのない質問について考える時、頭に「?」が浮かびます。トロッコ問題などそうです。「Aでもない、bでもない」とはざまで揺れ動きます。この状態も実体の境界が揺らぎます。

現状の外にゴール設定をすると、そのゴールははっきりとはわかりません。抽象度高く、こうなったらいいなあと思いますが、漠然としたイメージです。達成方法もわかりません。この時、頭の中では「?」が飛んでいます。

つかめそうでつかめないゴールの姿を追います。その時、私たちは変性意識状態であり、あわいの空間にいます。今の現実とは違う世界に行こうとしますが、その世界はまだはっきりしていない曖昧な世界です。

頭の中に「?」が飛ぶと思考が消えます。理性では追いつけません。すでにゴールは設定されていますから、その状態でいると、思考に邪魔されず、身体が目的に向かって動き出します。無意識が体を動かし、必要な情報をつなげていきます。

理性が介入しなければ、思わぬ方法でゴールへのショートカットが起こります。セレンディピティやシンクロニシティが起きます。

現状で凝り固まっているものをゆらがせるとスコトーマが外れやすくなり、今まで見えてなかったものが見えてきます。

抽象度が高くなるほどに具体的な実体は曖昧になります。抽象度が低くなっていくほどに個体感、個別感が増し、実体があるように見えます。

水平線がどこから水面でどこから空かが曖昧なように、白黒つけられない世界があります。物理次元は抽象度が低いので固体感が強く、境界がはっきりしていますが、肉体を持つ私たちにも本当は実体はありません。

今いる世界の外側に思いを馳せる

一つ上の抽象度に意識を向けることは、今の抽象度世界と一段上の抽象度世界のはざまあるいは、際に立つことになります。

今の自分が見ている世界以外にも世界が存在することを知っていることが大事です。それは現状の外にあるので、何があるのかははっきりわかりません。けれども今の系の外にも世界があることを知り、そちらに意識を向けることが大事です。

別な言い方をすれば、現状のリアリティと別のリアリティのはざまを揺れ動いているということです。

あるいはコンフォートゾーンの移行。今のコンフォートゾーンではない、ゴールのコンフォートゾーンに移行すること。そのためには、今のコンフォートゾーンを出なければなりません。自分にとって安心安全な領域を出て、未知な領域に踏み込みます。すでにゴールのコンフォートゾーンの臨場感を十分に感じていれば、難なくそちらに移行します。

今の可能性と別な可能性。いつだって可能性は無限にあります。私たちは毎瞬、その中から一つの可能性を選んでいます。

脳は省エネなので、繰り返されることは無意識下に落とし込みます。自転車の乗り方や車の運転は覚えてしまえば自然とできます。そんな風に自動化されます。自動化されてしまえば、当たり前のこととして再現されます。

これは便利な機能ですが、それが習慣化されると変えるのが難しくなります。ルーティン化してしまい、他の可能性を見なくなる危険性があります。

カチッとハマった状態でいるよりは、あわいの状態でゆらいでいるほうが移行しやすいです。

「あわい」に似ている言葉に「あいだ(間)」がありますが、このふたつは少し違います。「あいだ」の語源は「空き処(ど)」で、AとBに挟まれた空間を言います。それに対して、「あわい」は「合う」を語源とし、AとBの重なるところ、交わった空間を言います。

https://mag.nhk-book.co.jp/article/8786

本来、私たちは「あわい」に存在するのですが、分離の文化に慣れすぎて、物理空間しかないような感覚に陥って、あわいの状態を忘れています。
言語は物事を区別、個別化、分類することによって構成されますから、それを使う私たちの思考も分離思考が基本になります。

私たちはいつも変性意識状態にある

ところで、私たちは、ほぼいつも変性意識状態にあることを知っていますか?
ここで言う「変性意識」とは、目の前のあるがままを見ていない状態を指します。

たとえば、テレビを見ながら「今日の夕食は何食べよう?」と考えているとしたら、今、目の前にないことを思い描いているので、それは変性意識状態となります。小説を読んで、その情景を思い描いているのも変性意識状態です。

私たちは日頃から目の前にないことを考えていることが多いです。ということは変性意識で過ごしている時間のほうが長いということになります。

変性意識もまたあわいの状態です。私たちはいつもあわいの状態にあるのですが、物理感覚が強すぎて、その状態を感じ取れなくなっています。

あったかいお風呂に入った時や、きれいな夕日を見た時などに「あ〜、いいなあ〜」と感じる時、思考はとまり、ただ身体感覚で感じています。

目の前の現象に対して脳内ホルモンが分泌され、その感覚に後付けの解釈が入っておらず、ただ感覚に浸っているだけの状態です。思考が介入していない感覚だけの状態もあわいにいる状態です。そこに言語はまだ介入していません。

思考を介入させない身体感覚だけになるためには、魂振りをしたり、答えのない質問をしたり、瞑想するのが役に立ちます。

幻の世界で地に足をつけて生きる

あちらでもない、こちらでもない状態というより、あちらでもあり、こちらでもある状態があわいです。共通項の部分です。どちらにもなりうるとして、その間で常に揺らいでいます。

逢魔時(おうまがとき)は、昼から夜に移り変わる夕方の薄暗い時を言います。どちらでもなく、どちらでもある時間帯。あちらの世界とこちらの世界が交わりやすい時間帯なので異界と繋がりやすいし、事故が多いそうです。事故が多いのは、薄暗くなるので視界が悪くなるからだと思いますが。

仏教では、空観、中観、仮観という考え方があります。
空観は、この世は幻(空)であると知っていること。
仮観は、空だとしても、この現実の世界に生きることにも意義があるとすること。
中観は、空に偏りすぎず、現実にも埋没しすぎず、空観と仮観を行ったり来たりしながら、この幻の世界を生きることを言います。

中観もまたあわい的な生き方ではないでしょうか。

私たちの肉体は常に揺れ動いているし、ミクロ的に見ればほとんど空洞です。水分が約70%だということを考えると体内は流動的です。

私たちはあたかも固体であるかのように思い込んでいますが、そうでないことを知りながらも、一人の肉体を持つ人間としてどう生きるのか?を考えることが中観的生き方ではないでしょうか?

自我も幻

私たちは「自我がある」と思っていますが、自我はさまざまな関係性(縁起)のなかで成り立っている一つの意識です。その関係(縁起)が変わると自我も変化します。自我もまた固定されたものではなく、流動的です。

「私が私である」という根拠はどこにあると思いますか?

名前も職業も住まいも学歴もあなたが生み出したものではありません。あなたに関係する物事によってあなたという人物は構成されています。それらを取り除いていって最後に残るものはなんでしょう?

哲学者のデカルトは、すべての出来事を意図的に疑うということをしました。そして彼がたどり着いた終着地は「『すべてを疑っている』という自分の意識だけは最後に残る」ということでした。

あなたが外の世界から得たものをすべて取り除いていくと、最後にたどり着くのはデカルトと同じように自分の意識になるでしょう。意識は自分が生み出したものとは言えませんが、「自分がいる」と認識している自分の意識は自分から生じたものと言えます。しかしその意識は捉えどころがないし、自分が意識を失うと同時に消えます。

「この世は幻だ」「自我なんてないんだ」「自分はいるけどいない」というところが腑に落ちてくると悩みなんてなくなるでしょうね。だって、その悩みは幻でしょ?ってことになります。

でもそれを楽しむために私たちは生きていますから、大いに悩みながら心に栄養を与えて成長していきましょう。