場を共有するということ
かねてからコーチングと能には共通点があると感じていました。
私がカウンセリングをしていた頃から感じていたことですから、カウンセリングとも共通点があります。能のストーリーは過去に関係すること(怨念、報われない思い)が主題になっていることが多いので、カウンセリングの傾聴に近いかもしれませんが、非言語での書き換えにおいてはコーチングにも似ています。
要となるのはワキです。シテが舞うのを舞台横で座ってじっと見ている役です。
面をつけたシテは報われない無念な思いを抱き、シテが見ている前で唄い、舞い、浄化されて成仏する話が多いです。
この見ているだけに見えるワキがとても重要な役割を担います。誰か見守ってくれている人がいるから霊も成仏できます。
それもただながめているだけでは意味がありません。場を共有することが大事です。けれどもそこに同情や共感はいりません。カウンセリングでは共感を伴うこともありますが、コーチングではいりません。
ワキは「想いを見届ける」役をしているのではないかと私は思います。こんなことがあった、こんな思いをした、そのエネルギーを受け取りますが、解釈も判断もしないことで、シテ側の思いは浄化されていく…。
シテの代わりに幽霊で考えてもいいです。幽霊を「想いの残像(念)」であるとすると、そこに現れるのはなにかやり残した想いがあるからです。そこをわかってあげると想いは遂げられるので、もうそこに存在する必要がなくなり、そのエネルギーは消えて(変容して)いく…。
意識の矛先を変えていく
これをコーチングに置き換えると、クライアントの「過去からの想念」にあたります。
これがゴールに向かう妨げになります。「ブリーフシステム」と置き換えてもいいです。「自分はいつもこうだ…」「過去にこんな失敗をした」「人に裏切られた」など否定的な思いがあるとなかなか現状の外に飛び出せません。
コーチはアドバイスをしたり、代わりにゴールを設定したりはしません。クライアントの意識がゴールに向かうよう働きかけをします。その時に、クライアントが話す、自分に関するあれこれ、過去に関するあれこれ、これらを真に受けて聞きません。あくまでそれらは今のクライアントから引き出された心象風景です。一緒にそのことについてどうしたがいいか考えたら、コーチがクライアントと同じ土俵に立ってしまいます。
カウンセリングでは「わかってもらえた」という思いは、クライアントの癒しに大きく関わるので同じ土俵に立つことも必要ですが、コーチングにそれはないです。コーチはクライアントより抽象度が高くないといけませんから、違う土俵から見ています。
物事は自分がそのことについて考えるほどに強まります。つまり意識すればするほどリアル感が増していくということです。
過去のイヤな出来事はくりかえし思い出すごとに自分で脚色して変えています。自分でも気づかないうちに、自分を悲劇のヒロインのように仕立て上げていることもあります。
過去のことやネガティブなことをくりかえし思い出すということは、そこにエネルギーを与えているということです。植物で言えば、水と栄養を与えて成長を促しているということですね。
それに対して何も反応しないと、それは弱まり、小さくなります。自分が気にせず、意識にあげなければ、それは無いのと同じです。以前と変わらずそこにあっても気になりません。
シテ(クライアント)が舞台の上で舞っている(自分のことを話している)のを、ワキ(コーチ)は場を共有して観ています。その関わり方により、そこで話されるネガティブな思いは重要性を失い、消えていくことになります。その人の臨場感の強さによって1回でなくなることもあれば、何回かのセッションが必要となる場合もあります。
ゴールを設定しようにもネガティブな思いや過去の記憶が強い場合は、そこへの働きかけが必要になりますが、取り除こうとするのではなく、「気にしない、ただ見る、流す」ことで重要性が薄れていきます。これはセルフコーチングの場合も同じです。
脳には、その人にとって重要と思われることを優先して見せてくれるRASという機能があります。自分の重要性を変えていくと、目に入ってくるものが変わってきます。
シテが情念を表現していくさまをワキが見守ることで鎮魂となり、浄化され、シテの中の重要性が変わります。
気になっていたことがいつのまにかどうでも良くなるというのは、コーチングセッションで良くあることです。つまり重要性が変わったということす。
これはヒーリングにも言えることですね。
コーチングの場合はゴールに向かいますから、過去へのこだわりを消すことより、ゴールに向かって未来を創造していく働きかけが中心になります。
その他、ラポールや変性意識、非言語空間や非言語情報においても能に学ぶところがあるなーと感じています。