あなたはどんなバイオパワーにとらわれているのか?

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脳の呪縛を解く方法』(苫米地英人著)にこんなことが書かれています。

「自由に選択できる」「嫌なら逃げられる」と、頭ではわかっていても逃げられないのです。

その力を「バイオパワー(生権力)」と言います。

「不自由を選択しているのではなく、不自由を選択させられている」

脳には「自分で自分を縛る」力が備わっている

「バイオパワー」はフランスの哲学家ミシェル・フーコーが1975年に発表した『監獄の誕生ー監視と処罰』で提唱していて、彼は「パノプティコン」という監獄システムを例に記述していると続きます。

簡単にまとめると、
パノプティコンは全展望監視システムです。囚人からは監視者が見えない一方で、監視者は囚人を監視できるようになっています。囚人は監視されていなくても「監視されているかもしれない」と意識するので、行動が規律化され、抑制されるというものです。

人は「誰かに見られているかもしれない」と思うことで、行動が抑制され、自由を得ることが難しくなります。これがバイオパワーです。

「本当は逃げることができるけど逃げない/逃げられない」という経験がある人は多いと思います。今の会社の仕事は嫌だと言いながら、収入がなくなるから…と言ってやめないのもその一つです。そこにバイオパワーがあるとしたら、世間や家族の目や自分のプライドなどが考えられます。

二つのバイオパワー

上記の本の内容とは違いますが、この「バイオパワー」には大きく分けて2種あると私は考えます。

一つは、人によるバイオパワー。

現代では監視カメラやSNS投稿、スマホなどによる盗撮や盗聴によって、いつどこで見られているかわからない状態だといえます。それは以前よりきつくなっています。

またニュースやメディア、教育に仕掛けられた情報は私たちが気づかないうちに私たちのマインドを巣食っていきます。

そしてもう一つは、人為を超えたバイオパワー。いわば「お天道様が見ている」というやつです。
キリスト教で言えば、神への忠誠心や、生きている間に善行を積めば天国に行けるという考えになります。

こちらは人によるバイオパワーよりは良心的になりやすいと思いますが、これまた2種あると思います。

一つは自分の良心や倫理観に基づくものであり、もう一つは、人によるバイオパワーにやられた信仰心によるものです。

つまり神を絶対なるものと位置付けて、その教えに背くものは悪であるという考えです。これは本当は「人によるバイオパワー」に入れた方がいいでしょう。一見、強い信仰心に忠実に行動しているようで、実はその信仰心自体が洗脳であるというわけです。偽の神にコントロールされていると言えます。

お天道様が見ている

さて私がここで話したいのは、人によるバイオパワーではなく、日本的な「お天道さまが見ている」というバイオパワーです。

こちらは平和であり、良心的です。
先ほども書いたように一神教的は支配的です。

自然観や宗教観に関係してきますが、日本は八百万の神や仏教思想などがあります。アニミズム的であり、多神教的であり、観念的な神より自然を神的な存在とします。
すべての上に立つ絶対的なものがなく、関係性の中で己れが成り立っています。

自然がとても豊かであり、自然災害が多い日本にとっては、自然は恵みを与えてくれるとともに容赦なく荒れ狂い、破壊する存在でもあります。台風、地震、津波、洪水、噴火など人間の力の及ばない自然の脅威には日本人は何度となく体験しています。

しかしながら四季折々の豊かな自然に恵まれ、きれいな豊富な水もあり、その恩恵は計り知れません。

日本の神に「荒魂(あらみたま)」と「和魂(にぎみたま)」があるのは、その両面を表していると言えます。同じ神が優しくもなり、荒々しくもなります。

私が子供の頃には「お天道様が見ている」とか「悪いことしているとカミナリさまがおへそをもってくぞ」とか言われて、その見えない「監視」が気になりました。

悪いと思えることをしようとする時、「バチが当たるかも?」と思って躊躇するのです。お天道様は全部お見通しだから隠せないと感じるのです。

良心との対話

今思えば、これって実際に見えない神様がいるわけではなく、自分の良心との対話です。それは「超越的な存在に見られていて罰せられるかも?」という恐れであり、一線を超えたりタブーに触れる恐怖です。お天道様と言ってますが、天から裁きが来るわけではなく、自分の内面の話です。

昔は、タブーを超えると人でなくなり、鬼や魑魅魍魎の仲間入りをすると思われていて、それは死ぬより怖いことだったと思います。今で言えば、ゾンビになるようなものですね。

倫理観は子供の頃にまわりから教えられ、それに基づいて判断するようになります。
うそをついてはいけない、盗んではいけない、人を傷つけてはいけない、人には親切にしなさい、など。

これは宗教観や道徳観によって違ってきます。「他宗教を信じる者は悪魔だ」という教育を受ければ、それを真実だと思ってしまいます。

「善行を行えば天国に行ける」というのも、神なるものに常に見られていると解釈もできるし、支配者が支配しやすいように作り出した概念とも言えますし、自分がしたことは自分に返ってくるというこの世の仕組みによるとも言えます。

未知に対する畏れは謙虚さを生む

少なくとも昔の日本では「お天道様に見られている」と「鬼や妖怪、魑魅魍魎になりたくない」という思いが根強く浸透していたので、タブーという一線を超えるには勇気が入りました。

人が関わっていい世界と関わるべきでない世界が分かれていました。

ハレとケという考えがあるように、祭りでストレスを発散したり、神域には結界をして入れないようにしたり、うまく精神のバランスをとるような社会的な仕組みが生活の中にあったように思います。

なんというか闇は闇のままで置いておく感じですね。あえて排除しようとか消そうと思わない。あるのは認めるけど、できるだけ関与しない。踏み込まない。

人知を越えたどうしようもないことが起きると、鎮魂したり拝んだりしてそのパワーに願うことで、畏れ多いエネルギーとして尊神にも荒神にもなれます。

「畏れ多い」と感じることは謙虚さを生み出し、よいバイオパワーになります。

今の時代、「畏れ多い」と感じることはとても減っています。何でもかんでも科学の元に白日にさらすことをしてきたおかげで陰陽のバランスが崩れています。

環境の中の闇(”異次元”への入り口、人がタッチすべきでない領域)がなくなっていくにつれ、タブーの一線が消えました。陰陽のバランスを取るため、環境の闇が減った分、人の中の闇が表に現象化し始めました。お天道様的なバイオパワーが効かなくなったのです。

自分に関わるバイオパワーについて考えてみよう

今はそれとは別に『1984』の小説にあるような人為的なバイオパワーが色濃くなっています。これは冒頭のバイオパワーの話につながっていきます。

外から押し付けられたバイオパワーに翻弄されるのではなく、自分の良心によるバイオパワーによって行動が決まっていくように心がけてないと、気づいた時には逃げたくても逃げられない状態になってしまいます。

今一度、自分がどういうバイオパワーに見られていると感じているのか、じっくりと観察するといいでしょう。