エピソード4:永遠の反抗期

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大人への不信感

成長するにつれ、いろんな経験を経て、自分を抑えるようになっていきました。

本音と建前とか、きれいごとを言うとか、人が見るからちゃんとふるまえとか、母がそういうことにうるさかったですが、私は、なぜ自分に嘘をつかねばならないのか?と思ってました。

常識や一般的な価値観、大人のふるまいに対して疑問と違和感を感じました。

中学校で女子がペアで行動するとか、トイレにいつも一緒に行くのも理解できず、一応雰囲気に合わせてそうしてましたが、全然一般女子的な価値観や感性ではなかったようです。

仲良しグループになるのも苦手で、一つのグループに完全に入るというより、複数のグループに片足ずつ突っ込んでいるような感じでした。新しいクラスになって、ペアやグループにまとまっていくのはすごく苦手でした。

家族の中の黒い羊

親は絵に描いたような常識的な善良な一般市民でした。
常識やまわりのしきたりや習慣に合わせて生きることが大事。

問題を起こさず、みんなと同じでありなさい。敷かれたレールに乗っかって生きれば安心安全」という価値観と教育方針でした。

それに疑問を感じ続けた私は反抗しまくることになります。
親の価値観とまったく合わない。親も私のことを理解不能だったでしょう。

親との関係がうまくいかず、黒い羊のように感じていて自己否定感が強かったです。

親は道徳的ないい親であろうとしたのでしょうが、話をしようと思ってもすぐに説教になってしまいます。そのため小学生の時から親に個人的な話は一切しなくなりました。それは今も続いており、ずっと他人のような親です。

親の名誉のために書いておきますが、とても善良ないい人たちです。私の方が”普通”ではなかったので、普通の価値観を持っていた親にはたくさんの心配をかけてしまったなと今では思っています。

親との問題は今ではすっかり解決しているので、今さら書くのも…というぐらいになっています。しかしながら当時はそれにかなり悩まされた人生でした。

透明人間な私に気づき、ゾッとした話

反抗期が始まってからは、極力両親と一緒にいたくなかったので、夕食時はいつも犬を散歩に連れて出ていって時間をずらしていました。父親に対して極度の生理的嫌悪感がありました。

当時、私は精神的虐待と感じましたが、親は親で一生懸命子育てをしようとしていました。
これは30代になって、親子問題に向き合わないと私の人生これ以上進めないと思って向き合い始めた頃にわかったことです。

10代~30代前半まで、親の呪縛からぬけでれなくて、自分自身を取り戻すために葛藤し続けました。親はそのつもりなくやっているのですが、私にしてみれば、手足がもぎとられ、人格否定されているように感じてました。過干渉で常に出鼻をくじかれるので、複雑な歪んだ性格となりました。

私は背骨の彎曲症があります。女子の場合は、成長期に、女性であることへの違和感や父親との問題があると背骨が彎曲しやすくなると聞きました。自分をそのまままっすぐに出して生きたいのにできなかったのでゆがんでしまったんだなあと思います。出る杭は打たれまくって曲がってしまいました(苦笑)。体は正直ですね。

親が目の前のありのままのその子を受け入れていないということはよくあることです。親も気づかずにやっています。

親が自分の心の中にある理想像の子供ばかりを見ていると、子供は自分自身を見てもらえてないことを敏感に察知します。

このままの自分はいてはいけないのだと感じ、親の期待に応えようと自分を押し殺して、いい子を演じて虚像の自分を生きるか、「本当の私を見て!」と自己主張し続けるか(反抗する、不良になるなど)です。

ある日、母にとって、目の前のこの私は存在していないのだと、彼女の中の「娘像」が彼女の娘なのだと知った時、ゾッとしました。透明人間になった気分でした。母は知らずにそうしていたのでしょう。

長い間、自分は愛される価値がない、存在すべきでないという自己否定感がありましたが、そのようなことを感じとっていたからでしょうね。

家にいるときは表情のない能面のような顔で過ごしていました。そのまま家に残っていたら、完全に自分の殻に閉じこもり、今でいう引きこもりになっていたでしょう。

自分の人生を選ぶか、親のために生きるか

そのうち私は「親のために生きるか、自分の人生を選ぶか(親を捨てるか)?」の選択せざるを得なくなり、自分の道を行くことを選びました。

心理学で「母殺し」「父殺し」という言葉があります。
本当に殺すわけではなく、親を超えて成長し、自立していく過程の話です。

「母殺し」は自我の自立、「父殺し」は、古い慣習やルール、伝統や文化などをぶち破り、新しく作り出す意味があるそうです。

この時の私もそのプロセスの中にいたのでしょう。

親サイドから見れば、反抗ばかりして言うことを聞かない子供で、扱いに困ったと思います。
常識的な親心なら「親の言うことを聞いて普通に暮らすが一番」と思うでしょう。

私には母のシャドウ(影)の部分がでてきていました。母が抑圧してきた部分が次々と私にでてきてましたから、母も相当悩んだと思います。

母は自分を抑え、まわりにあわせてきた人です。深層心理ではもっと好き勝手にやりたかった思いがあって、それを私が表現する形になったんだと思います。

親は常識的な生き方の代表でした。平和で閉塞的な田舎でまわりがみんなそうなので、私が異質だったと思います。

型にはまった生き方を私にさせようとし、私はそれに反発。「自分はそうじゃない」と自己主張しながらも、認めてもらえないことで自尊心はボロボロの状態でした。

当然ながら、大人、常識、体制、多数派などに対して違和感や反発を感じました。人間(社会)に馴染めない違和感はずっとありましたから、常識的なあり方に馴染めないのもうなずけます。

お前は奇妙に悲しい生き物だ

中学の時には、三原順のマンガ『はみだしっ子』にかなりはまります。これは4人の家出した子供達が放浪して、いろんな人や出来事に出会う話です。その後、私は一人で海外に住んで、友達と暮らして、、という、このマンガと似たストーリーを生きています。相当読み返していますから無意識に刷り込まれたんでしょうね。

三島由紀夫にもかなりはまりました。『仮面の告白』に出てくる「お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ」という言葉がその後、長い間つきまとい、私のセルフイメージになっていました。

パンクロックに救われて

そんな頃、ロック音楽を知りました。
最初に買ったLPがQUEENのボヘミアンラプソディ。
そして、英パンク・ニューウェイブ系にハマり出しました。

今のようにインターネットもパソコンもない時代です。
田舎の学校だったので、ブリティッシュロックを聴く人を見つけることはできませんでした。
私一人イギリス音楽にはまってました。アメリカンはあまり肌に合わなかったので、ブリティッシュばかりでした。

人間社会に違和感を感じ続け、「お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ」という言葉がずっと心に残っていた私です。パンク音楽は、自分が負けて消えてしまわないように私を支え、本当の自分を保てるよう元気と勇気をくれました。

小学生時代は野山で遊び、高校は剣道部で楽しく過ごしましたので、暗い子供時代ではなかったです。ただ家の中では、自分の部屋に閉じこもりきりの表情のない何も話さない子でした。

エピソード5につづく

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