やりたいことだけしていたら現状維持になってしまった
「やりたいことに潜む現状維持のワナ」からの続きの話です。
自分を放置プレーして、「ねばならない」「すべき」と思うことをできるだけやらないようにして、やりたいと思うことだけをやってみるという実験をした結果、コンフォートゾーンの習慣にはまる危険性を感じたという話を書きました。
そこにどっぷりとはまってしまうとなかなか抜け出せません。
よくも悪くも居心地いいから。
昨日と同じ今日を繰り返していくと考える必要がなくなっていくのでだんだんと思考停止して、行動が無意識化されます。それが習慣なわけですが。そうなるとますます変わりづらい。
という話でした。
私がこれをした理由のひとつは、今までの習慣を変えたいと思ったからです。
それは見事変わりました。
現在のコンフォートゾーンを変えていく
『80対20の法則』といわれるものがあります。
結果の80%は20%の原因から生み出される。
20%が80%の良い結果を生み出している。
といわれます。
以前の私は、80%無駄な努力をして20%の結果を出している感ありました^^; その無駄をやめて、結果がでる20%に集中したいという思いもあり、80%をしない方向にもっていったわけです。
おかげさまでそれはうまくいきました。
80%ををほぼやめてみたけど、危機感がありません。といっても、結果が出る20%にフォーカスしているわけではないので、危機感がないことに少し不安がよぎります。
今のところとくに問題なく、その時間を他のことに費やせるようになりました。それらは今までやりたいと思ってやっていなかったことなので、それはそれで良かったです。
ところが今はまた、自分をプッシュする時期になっているなーと感じます。このままいくとぬるま湯行きだと感じますので、また自分を荒野に放り出さなければなりません。
以前、親とすごくうまくいってたら自分はどうなっていたと思うか?という質問をされた時に、「歯止めがなくなって、好き放題して今は生きてないかも?」と答えましたが、母親が思い描いていたように、結婚して実家の近くに住んで、普通の主婦していた可能性も十分あるなーと思いました。と余談ですが。
やらなくてもいいことはやらないと決める
やりたいことをするという以前に、やらなくていいことをやめること。
これってけっこうむずかしいです。
私たちがしていることの大半はやってもやらなくてもいいことです。しかし「やらなければいけない」と思い込んでいます。それに時間を削られ、振り回されて本当に大切なことが後回しになっています。
そこをもう一度見極めたいと思いました。
やらなくなったことは自分にとってそう必要なことではないんだろうなと思います。
ただ理性の方は「いやいや、それはよくない。その状態だと後でツケを払わないといけないよ」という脅しをかけてきます。
これにのってしまうと「ちゃんとやることしないと、うまくいかなくなるよ」という暗示にかかってしまいます。
その状態を手に入れて、「ほら、みたことか、言った通りだったでしょ」と自分を納得させ、それまでの習慣(あり方)に戻ることになります。
反対に、「ツケを払うんじゃなくて、今までのことを清算したから、新しいステップに行くよ」と受け取るなら、新しいやり方に移っていけます。
十年ぐらい繰り返していた習慣から抜け出たので、それはそれですごいことです。
今度は再び自分をプッシュする方向へ。成し遂げたいことを実現するための20%に向かいたいですね。
「やらなければ」と思うのはなぜ?
やりたいことにしろ、やらされていると感じることにしろ、「やらなければ」と思っている時は頭は常に焦り、考えています。
そういう時はエゴの ”自力” になってしまいます。これは言い換えれば、自分に潜むもっと大きな力を拒否っているのと同じです。
そうならないためには、ゆるい状態、つまりリラックスしている状態でいることが不可欠です。
しかしゆるいだけだと締まりません。
だらけてしまいます。
アイデアやひらめきが起きるのは、緊張と弛緩の両方があるから起こります。
いろいろ考えたり調べたりと自力でがんばったのち、リラックスして頭を空っぽにすると、それまでに得た情報がいったん解体され、右脳が必要なゲシュタルトを新たに編成します。
そして、左脳の理性的な思考が、働き出す前の空白状態の頭の中にぽーんと落としてくれます。そして、アハー!これだ!と思うひらめきがやってきます。
これは左脳の言語脳をずっと使っている時には起こりません。頭の中が一瞬でも空白になった時にやってきます。
自我意識とそれを超えた意識
私はよく「すべては自己責任」「自分が変わると世界が変わる」「あなたがあなたの世界を作っている」と言います。
これらはスタート地点です。
エゴに支配されている自分に気づいて、自分の人生は自分が作っていることを理解したら、また次の段階があります。
そこでは「自分なんてものはない」という認識に変わります。エゴよりもっと大きな自分の存在に気づけます。
それは自分であり、自分でない。
その先に行くと、「自分」にこだわり続けるのが馬鹿らしいぐらい、世界はひとつであるという認識。生かされている感覚と、自分という存在は複合体であるという認識。大いなる意識の一端を担うもの。
「八百万の神々」とはよく言ったものだと思います。私たちは八百万の神々の複合体、共同体と言ってもいいでしょう。彼らと共に世界を実現していく存在なんだろうなと感じます。
これからはこの方面のことももっと掘り下げていきたいなと思います。
悦月(えつき)