抽象度が違うと、見える世界も違う

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抽象度が違うと、見える世界も違う

脳は私たちが重要視するものを優先的に見せてくれ、興味ないものは見えなくしてしまいます。

登山に興味のある人はそれに関する情報をキャッチしますが、興味のない人は登山情報があっても目に入りません。ご近所さんしか知らないご老人がいれば、その人にとっては海外の出来事などないに等しいです。

抽象度の高さによって人は見えたり見えなかったりしますので、抽象度の高さが違うと、住んでいる世界がガラリと変わってきます。

抽象度の高い人はいろんな情報を含んで物事を見ることができます。
抽象度が低い人は一部の情報しか見えません。

我が家しか見てない人は自分の家だけ守れたら良しとします。戸締りやガスの元栓などチェックします。

もう少し抽象度が高くなると、その地域に土砂災害や洪水、地震などの危険がないか調べます。いくら我が家が安全でもその地区が災害警戒地域であれば、土砂や洪水で埋もれるかもしれません。

日本を視野に入れるなら、もっと安全な地域に引っ越そうとか、海外も視野に入れるならもっと選択肢は広がるし、船の上で暮らそうか、というアイデアも出てきます。

抽象度が高いといろんな選択肢が見える

抽象度が高いと、いろんな可能性が見えますので選択肢が増えます。
抽象度が低いと、エゴの視野から、つまり自分視点からのみ物事を見ます。
なので選択肢が少なくなります。

選択肢が少ないと恐怖が増します。
「それしかない」という状態になりますから。

それしかないから、それがなくなったら終わり、なすすべがないと思ってしまいます。
当然、生き残りにくくなります。

水は水道の水しかないと思っていたら、断水したら水が手に入りません。井戸や湧水、川の水、雨水が使えるという選択肢を持っていれば、水道が止まってもどうにかします。

政府やお偉いさんが「これをしなさい」と言うのを疑わず鵜呑みにしていると家畜一直線です。

心の問題だけでなく、いかに柔軟にクリエイティブに物事に対応していけるか?はとても大事なポイントです。

抽象度の高さによって見える世界が違うので、その点、違う世界に住んでいるかのごとく、です。建物の一階と二階で暮らしていて出会うことがないのと似ています。

抽象度が高くなるとシンプルになる

抽象度が高くなると具体性が減ります。
つまりシンプルになります。

山田町3-5-18の石橋幸雄さんの情報となると、年齢は、職業は、育ちは、、、と際限なく出てきます。

「日本人」という抽象度でみれば、「日本のパスポートを持っている人」。

とてもシンプルです。

地球人とすれば「地球で生まれた人」です。

石橋幸雄さん=地球人

どんどんエゴが薄まりますね。
「日本人」にも「地球人」にも石橋幸雄さんは含まれています。

ありのままの自分は思考停止しているのか?

本来のありのままの自分、いわゆる自然体になれば、「今ここ」を生きて、あまり思考しなくなるが、それは思考停止ではないのか?と考える人がいます。

これは無駄な思考をしなくなった状態です。言語での思考を超えたレベルでの思考をしますから一見何も考えてないように見えます。

実際、何も考えてません。頭の中は良い意味で空っぽです。
雑念がなく健やかです。考えなくてもやることがわかっている状態です。

抽象度高く物事を感知しているので細かいことが要らなくなり、瞬時に判断できます。これを人は「宇宙とつながった」とか「覚醒した」と言います。

「地球人」としての自覚を持とう

わたしたちにはもっと「地球人」としての自覚が必要です。
個人としての意識が中心となるより、「地球人」としての意識の方が動きやすいです。

つまり個人的な石橋幸雄さんだと、本人も「石橋幸雄ってどんな人?」と迷ったり、「これが自分だ」と思って制約が入ります。

地球人としての意識が先に来るなら、地球人としてふるまうことが優先され、エゴの自分が薄れます。「地球人として尊厳を持って生きる」とゴール設定しているようなもんです。

「本当の自分」「ありのままの自分」と言いますが、それがどんな自分が分かりかねるなら地球人として生きてみるのも良いですね。

では、「地球人」ってどんな風なのでしょう?

それは「自然」を参考にするといいです。

ところで、山田町の石橋幸雄さんって誰やねん?

・・・私も知りませんー。

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