愛とは関係性(『超瞑想法』より)

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『思うままに夢がかなう 超瞑想法』から、私が気になったところをまとめます。

この世の森羅万象は、絶対的に存在しているわけではなく、あなたの五感が何らかの情報をキャッチして、その情報を脳が処理することによって、この世に存在しているかのように認識されているのです。

空とは、ありとあらゆるものが詰まっている状態。しかも、そのありとあらゆるものが、ダイナミックに、常に変化しながら存在している状態を言います。

 今この瞬間に、あらゆるものが存在しているのです。
「あらゆるもの」には「無」さえも含まれています。
つまり、「有」や「無」を超え、「有」も「無」もみな包み込んでいるのが空なのです。
言うなれば、空は「超存在」であり、「超有」「超無」の世界なのです。

しかも、空に包まれているこの世界のすべては、すべてが互いに何らかの関係性を持っています。
この宇宙に存在するすべての事象で、独立しているものは1つもないということです。これを「縁起」といいます。

そして、その縁起の中心にあるのが、私たち 1人ひとりの心なのです。

私たちは、誰もが自分を起点にして始まる宇宙を1つずつ持っているーー。
空とはまさにそのことを言っているのです。

 この世界のすべての存在をダイナミックかつ多次元的にとらえ、それらすべての関係の中心に自分の心があり、自分の心がすべての存在、すべての事象を生み出していると考えることが、「空」の神髄なのです。
空だからこそ、私たちはその気になれば自分や世界をどんなふうにでも書き換えることができるのです。

そして話は「超瞑想法」についての話になっていきますが、今回、私が書きたいことはそこではないので、ここでは省きます。

これらの引用から言いたいことは書いてあるとおりです。
この世の中には絶対的なものはなく、常にお互いに関係しながら流動的に変化しています。

「私」を語ろうと思えば、自分の名前、その名前を名付けた両親や名付け親、育った環境、関わった人々、受けた教育など、いろんな関わり合いの中で「私」という存在が育まれていきます。

体内では、ミトコンドリアや無数の微生物の活動があり、それが私たちの体を保っています。私たちの肉体一つとっても、その存在は「たったひとつ」ではなく、集合体です。

毎日の生活でも、いろんな人との関わりがあります。今ある物はすべて誰かが思いついて作った物であり、それを流通させるにもたくさんの人が関わっています。

自分という存在をどこで区切るのか?

そういう関わり合いの中で、自分という存在が成り立っています。
自分という存在をどこで区切るのか?で、世界の見え方が変わってきます。

肉体で区切るのであれば、個体の一人一人が別々の存在になりますが、国という単位で区切れば、日本人、アメリカ人というふうに分かれます。宗教で区切れば、仏教、キリスト教など。自分との関係で区切るなら、身内、自分が今までに出会った人たち、家系、趣味の合う人たち、職場など様々です。時間軸を入れるなら、過去から未来まで、どこで区切るのか?

要するに、関係性なしでは自分を語れないわけです。
そうなると、自分という区切りをどこにするのか?

小さく区切れば、肉体と自我を持つ自分が最小単位に思えます。
が、もっと小さく見ていくと、肉体の中には無数の微生物が生きていますし、もっと細かく見ていくと、原子、素粒子となっていきます。このミクロの世界では、体育館に一個のパチンコ玉が置いてあるぐらいスカスカな空間となります。
そのスカスカの空間の中で、いったいどれが?何が?自分なのか…?

大きな区切りでみると、「縁起」という関係性の中であらゆるものがつながっていくので、ずっと広げれば、その縁起すべて、全宇宙が自分となってしまいます。言い換えれば、自分しかいないわけです。

私たちは、自分にとって重要だと思えるもので現実を構築していきます。
自分が体験する世界は自分が選んでいると言えます。

愛とは関係性

そして、この本の最後の方に愛の話がありました。ここが今回一番言いたいことです。

 釈迦のメッセージは「縁起」です。この宇宙にアプリオリなものはない、すべては縁起によって成り立っている、ということです。

一方、キリストのメッセージは「愛」、しかも神からの一方的な愛、条件なしの無償の愛であると私は考えます。愛が神から一方的に無条件に注がれるものであるのならば、一般的にキリスト教で言われているような契約の概念は不要です。人は、良い行いをしたから愛されるのではなく、無条件で神から愛されるのです。こうした無償の愛は、親が子を愛するのとまったく同じです。親が子供を無条件に愛するように、神は人類を無条件に愛するのです。
こうしたキリストの愛の教えのすさまじいところは、神の無条件な愛によって契約の概念を否定することで、神そのものの存在も否定している点です。
なぜなら契約の否定は、アプリオリ性の否定につながり、アプリオリ性の否定は絶対的な存在=神の否定でもあるからです。

では、契約によって神から人への愛が生じるのでなければ、愛はいったいどこから生じるのでしょう。
答えは一つ。

愛はもともと存在しているのです。
そして、その愛は何かといえば関係性です。
愛があるから、この世界はあるのです。

ここに至って、キリストが説いた「愛」は釈迦の「縁起」とイコールになります。なぜなら、どちらも「事物は関係性によって生じる」と説いているからです。
釈迦の教えとキリストの教えをひとつ上の抽象度から眺めれば、縁起の思想に行き着くのです。

つまり、演技の思想、さらに演技を発展させた空の思想を、より臨場感を持ってわかりやすく瞑想できるような物語をつくればいいのです。

私は一般的な愛の概念があまり好きではないのですが、最近その理由に気づきました。
それは愛と支配が裏表の関係で、重なり合っているからです。
「あなたのためを思って」という言葉が実は自分のためであるように、良かれと思ってしていることが支配のためであることは多々あります。

愛はもともと存在しているのです。
そして、その愛は何かといえば関係性です。
愛があるから、この世界はあるのです。

この言葉は深いです。
関係性こそが愛だと思うと、この世界は愛でできていることになります。
日本人は「おかげさま」と言いますが、これはまさにこのことではないかと思います。

「愛する」「愛される」以前がすでに愛

私は「愛は空気のようなもの」と常々思っていました。
愛という言葉が使われる時は、言葉には出しませんが、「人間間での愛」のことを言っていることが多いように感じます。つまり動詞です。「愛する」「愛される」という行為。

本来の愛とは「状態」ではないだろうか?と私は思います。動詞になり、「愛する」「愛される」となると、どうしても対象が必要になります。「AがBを愛す、愛される」というように。そうなると、分離があるからこそ愛が生まれることになります。

一般的に言われる「愛」はそういう愛を指しているように思います。もちろん相手がいることで表現される愛にもすばらしいものがあります。それがいけないと言っているわけではありません。

状態である「愛」は、関係性そのものであり、対象に焦点が当たりません。「愛する」「愛される」以前がすでに愛なのです。

先に関係があって、その関係の結び目が個体

この本ではないですが、苫米地博士は、「先に関係があって、その関係の結び目が個体(存在)」という話をされています。独立した物(存在)が先にあるのではなく、関係性のネットワークのなかで、その結び目として物質や存在があるということです。

親がいたから子供が生まれた、と私たちは思いがちですが、子供がいなければ、親にはなれません。親が先か、子供が先か? どちらが先ということはなく、親子の関係性が生じたから、親と子が現れます。

愛はどこにでもあるがゆえに無いように感じます。なので、人々はそれを求めます。それが行為としての愛となっていきます。

関係性が現れること自体がすでに愛であるならば、この世の中に生じることは愛から生じていることになります。なぜならすべてが関連しあって、今があるのですから。

あるビジョンが教えてくれたこと

以前、突然、あるビジョンを見たことがあります。
それは、つぶつぶの粒子状態から、いろんな物(人、ビル、木など)が形作られていくプロセスでした。粒子から物の形が形成されていくのを見ながら、そうなるには、何者かか「そのものが生じて欲しい」と願ったからに他ならないと思いました。願ったのは人とは限りません。すべてのものは「何者かが望んだから生じた」のであるならば、あらゆるものは愛から始まっている、と感じて感動したことがあります。

存在があるということは、愛だらけということです。
水の中にいる魚が水に気づかないように、愛の中にいる私たちはその愛になかなか気づけません。いったんそれを忘れ、それに気づいていくプロセスがこの三次元世界の醍醐味なのかもしれませんね。

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