つぶつぶに浮かぶクラゲ自我の話

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最近感じていたことが腑に落ちたので、今日はそのシェアです。
すごくワクワクする人と、「何言ってるかわからん」と思う人といるでしょう。

これは「私はこう思う」という、私の勝手な想像です。
ご自身で吟味してくださいね。

エゴはストッパーである

それは「エゴはストッパーだった」という話です。

私たちは自我意識があるからこそ自分という存在を自覚し、他者と自分を分けることができます。そして自我の自分を自分だと思い、それ以外は自分以外と認識します。

自我が自分を認識しているので、自我というフィルターを通して外の世界を見ます。
それは自分の内面の投影となっていますが、それに気づくまでは長い期間を要します。

外に起こっていることなので、まさか自分がその元になっているとは思えません。

本当の自分は自我を超えたところの魂とか、本体とか、ハイヤーセルフなどと呼ばれるものだと言われます。

意識は一つであり、それが私たちである、と。

一本一本の指は体とつながっている

手の形を思うとわかりやすいです。

一本一本、指があります。それが手のひらで一つにつながっています。
その一本一本は自由に動きますが、手のひらから離れることなく、一つの手として存在しています。

爪は「これが私」と思っていて、まさか手のひらでつながっているとは思っていないかもしれません。人差し指は「私は中指とは違うわよ」と主張したがるかもしれません。

「いやいや、あなたも手ですよ。一つの手ですよ。」といっても指の根元が見えなければ、つながりが見えません。

そして右手と左手は「私たち、別物だし」と主張するかもしれません。

「いえいえ、あなた方は胴体でつながってますよ。一つの体なんですよ。」とそばで見ていたら言いたくなりますね。

右手と左手が勝手な動きをしたら、その人物はとても困ります。

私たちも似たようなものです。

別々な人物のように思っていますが、抽象度を上げれば、ひとつにつながっています。
爪なのか、指なのか、右手なのか、腕なのかの違いはありますが、一人の体のように機能しています。

あなたは個別な人であるかのようですが、全体そのものです。

自我があなたという存在を結んでいる

で、話戻って、自我です。

これは、私がよくいう「あなたの自我がフィルターとなって現実を見せている」という話とは違います。

自我のおかげで、あなたはバラバラにならずに済んでいるという話です。
自我があなたという存在を結んでくれているわけです。

そりゃ、そうですよね。
自我があなたという存在を認識しているのですから。

例えば、砂浜で子供が砂遊びしています。
その砂一粒一粒が全体であり、自我の元です。

子供が砂でお城を作ったら、それは「砂の城」となります。
砂浜に広がる砂とは区別されます。

その砂の城があなたの自我と同じだということです。
自我がはずれれば(砂の城が壊されれば)、バラバラの砂に戻ります。

バラバラの砂の状態が本来の姿。

そして城になっている状態の自我とは別の「何か」もあります。
「自我が ” 私はここにいる ” と認識していることを知っている」意識ですね。

自我はいつも「何か」に見られている感がつきまといます。
自分を認識するには他者が必要ですから。

新型コロナウイルスは見えない未知の恐怖

「もうそういう話は知ってるよ」と思われた方もいらっしゃるでしょう。これを改めて体感させてくれたのは、今話題のコロナウイルスだったというところが、今日の話のポイントです。

今回のこのウイルス騒動は、世の中を変えていきそうな勢いです。

見えない恐怖に人々が怯えています。
除菌除菌と騒がれています。

空気感染はしないけど、飛沫で感染する。
閉じた空間は感染しやすい、etc

ウイルスは見えません。
またとても微小なので、普通のマスクを通り抜けてしまいます。

つまり粒が小さいのです。
見えないからどこにあるかわからない。
色がついていたり、粉で見えたらいいですが、私たちにはどこにあるかわかりません。

またまだ未知のウイルスなので、今後、どう変化していくかわかりません。
経済の動きやパンデミックを考えて不安になる人もいるでしょう。

つまりは未知の不安に怯えています。

見えない、わからない。

理屈ではどうしようもありません。
誰も答えを知らないのです。

まだ理性は答えを見つけていません。

この状態が何を導き出すのか?

つぶつぶが先、物体化があと

私の中で「つぶつぶ理論」というものがあります。
簡単に言えば、「すべてはつぶつぶだ」ということです。

量子論で言えば、粒子であり、波動だということになります。

先ほどの砂浜と同じです。
つぶつぶが集まって形になって物となる。

つぶつぶが先、物体化があと、です。

今、多くの人が、ウイルスという見えないつぶつぶに気持ちを向けています。
その感覚が自我を通り越してしまう。

私はこれを書きながら、映像でその状態を見ていて説明しようとしています。

目に見え、触れる個体より、目に見えないつぶつぶ(粒子)に意識が向いています。
脳裏で見ている映像は、微小なつぶつぶの感触になっています。

個体の固まりっぽく感じている自我が、ウイルスに意識を向けることで、ミラーニューロンの影響を受けます。そして自分も微小な粒子っぽさを感じて感化されます。

意識が個を超えて粉になる、というか、粒子が浮遊している状態がイメージしやすくなっているなーと感じます。

今までは、人の体とか個体として見ていたものが、浮遊している粒子に意識が向き(ウイルスどこだろう?と)、意識が個体を通り過ぎやすくなっています。

この感覚、わかりますかね?

恐れると自我意識が強まる

しかし今の状況を恐れている人は、反対に自我がより強まっています。
「自分が、家族がこの先どうなるか?」というところに気持ちが向くので、ますます自意識が強まります。

意識の矢印が自分に向いているか(内側)、ウイルスに向いているか(外側)ですね。

自分に向いていると、守ろうとしますから、殻を固くします。
ウイルスに向いていると、外を見て、どこに飛んでるだろうか?と空間に意識が向きます。

どちらにしろ脳裏の奥では、とらえどころのないつぶつぶが漂うのを感じているでしょう。
無意識レベルで。

これはすごく大事なことです。
集合的無意識に大きな影響を及ぼすでしょう。

塊に向かうか、空間に向かうかで変わります。
いわば、自我が溶け始めているというか、自我を透過して世界を見る感覚です。

「自我を透過」ですから、世界を観るのは、「自我を透過した何か」です。
それを認識するのは自我ですが、今までの自我とは少し違います。

その感覚を感じて、改めて気づいたわけです。

あー、自我は個体が解体しないためのストッパーだ、と。

つまり自我が「ひとつ」であることを妨げているのではなく、反対だったんですね。

結んでいるものを解くとばらばらになってしまいます。
そうならないように、自我という紐で自分を結んでいるわけです。

もともとバラバラだから。

ウイルスは集合的無意識のなせる技?

前にも、つぶつぶ状態の世界から、モノができあがるプロセスという、逆向きの生成を観たことあります。わかっているつもりでも、物理次元に住んでるといつのまにか見えるものにとらわれます。

今回、ウイルスによって気づかされました。

そして、ウイルスが、というより、ウイルス騒動を引き起こしている生命としての集合的無意識がそれをみなに伝えようとしてるんだろうと思いました。

それは裏を返せば、私たちの無意識がそれを望んでいるから引き起こしていると言えます。
本体である私たち「ひとつ」が、それを思い出させようとウイルスを持ち出した、、、という感じです。

自我がそれに気づけば、透過した先の世界を観る(感じる)ことができますから、新しい未来の到来を楽しみにできます。

自我が今までのままにかたくなだと、目の前のことしか見えませんから、ニュースに一喜一憂します。水面下で何が起きているかはわかりません。

自我は個体でなく、集合体

自我は個体でなく、集合体。
ネットワーク。

集合体である自我に気づく段階に入っていることに気付けるか?

その瀬戸際にいるような気がしています。

感覚的には、つぶつぶの世界の中にほぼ輪郭だけになった自分がいて、
「ああ、世界はこんなだったなあ」と思い出しているに近い。

今はもう自我を保ちながら、つぶつぶの世界にも行ける状態になっています。
気づいた人から。

ウイルスは進化する時が来たとのメッセージなのでしょう。

存在感が全く逆になる発想です。

つぶつぶの自分が、クラゲの自分を見ながら、「ああ、私の自我があそこに浮いてるわー」と見ているに近い。

どっちも自分で、行ったり来たりできる状態。
でも価値観は180度変わってしまいます。

なぜなら本体はつぶつぶ(一粒でなく全体)で、自我はまとまったそれが壊れないように結び付けられていたものだから。

映画を見ていた自分が、今度は、映画を見ている自分を見ている状態です。
感覚的につぶつぶの世界からこちらの世界を見ることになります。

そうなると、とても流動的です。

エゴ(自我)がフィルターではなく、ストッパーであると気づくことは、
すでに逆側からの視点に変わっているということです。

物理的日常生活と、見えない世界を行き来する

それでも日常生活を続けていると、物理感は半端ないです。一瞬で今までの物理世界に戻ります。二つの世界(感覚)を行ったり来たりを続けていくことで、落ち着くところに落ち着くのでしょう。

自我は、浮遊するクラゲやホコリ。そう思えたら、この世界に縛り付けられることなく、もっと自由になれるでしょう。

どちらか一方、ではなく、どちらの次元も行ったり来たり。
自分で調整できるのが一番いいですね。

また、免疫力をつけるために腸内環境を整える、発酵食を食べよう、菌を大切にしようと菌を見直す動きも起きています。

私たちを取り囲む見えない八百万の神々がまた復活してきていますね。

今、社会の仕組み自体が揺さぶられてますから、何かが変わらざる得なくなりそうです。
私達次第で、良くも悪くもできるんだろうなと感じています。

「何か」はそれをじっと静かに見つめています。
あなたもその気配を感じませんか?

悦月

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