あなたは「真実」や「真理」を求めていますか?
私は昔「神はいるのか?」「真実とは?」と考えたこともありました。でも今は考えてないです。なぜならどちらも人間が作り出すものだから。
人間がいないところでは神様は存在しません。
存在しているとしても、気づく者がいない。
人間がいるから「神」という概念が生まれ、神が定義されます。
では「真理」は?
人それぞれの真実がある
世の中には、真実や真理を求める人がいます。
真理とは?
不変のもの?
絶対の道理?
広義な意味合いでいうならば、自然や宇宙、生命の法則や原理原則などがそうだと言えるでしょうが、しかしこれらは「正しい、正しくない」というレベルのものではないので、ニュアンスが違います。
私が思うところを言えば、あなたが「真実」だと認めたものがあなたにとって「真実」となります。それはあなたにとっての真実ですから、私にとっての真実とは限りません。
あなたの真実はあなたが決め、私の真実は私が決めることになります。
すべての人に当てはまらないなら、それは真理ではない、、、のなら、すべての人が全く同じように認識できるものがあるだろうか?という疑問が湧きます。
すべての人は、その人の「自我」という認識機能を通して物事を見ます。
全員が違う体験をしています。
みんなが知っている一般常識や知識はどうでしょうか?
天動説が地動説になったように、時代の定説としてそれはあります。が、それはその時代に正しいと言われていることです。時代が変われば、間違っていると認識されるかもしれません。それを信じた人にとっては、それは真実と見なされますし、そこに真理を見出すでしょう。
語られる歴史は勝者側の視点で書かれています。
なので真実ではありません。
なぜ真理や真実を欲しがるのか?考えてみよう
同じ時間に同じところで同じ物を見ても、体験は違います。
真理や真実が欲しい人は、何かにすがりたい、信じたいのではないでしょうか?
確固としたなにか。
絶対的に信じられるもの。
それさえあれば、自分の中の欠けている何かが満たされる、あるいは、自分の中に信じることができる軸ができる、と思っているのではないでしょうか。
それを探すのはひとつのロマンになり得ますが、青い鳥の話のように外の世界で見つかるものではありません。
私たちは、自分が体験したように他の人も体験していると思いがちです。
真実がそれぞれにとって違うように、人は違う現実を生きています。
もともと違うものを見ているのですから、意見が合わなくても当たり前なのです。
であれば、「何でわかってくれないんだろう?」と思うのではなく、『わからなくて当然』という前提に立ってみましょう。
人はみな違う世界を生きているから、わからなくても当然
みんな違う受け取り方、感じ方、考え方をしています。時には信じられないくらい違う体験をしています。
「この人はこのように考えるんだ、こんな時にはこう感じるんだ」と自分との違いの発見を楽しめば、イラつきも減るでしょう。
言い方は悪いですが、動物園の動物を観察しているように思うといいです。
この人は犬だから元気に走り回るんだろう。
この人はモグラだからいつも静かなんだな。
少なくとも客観的に冷静に見れるようになるでしょう。
わかり合えないのは当然。
違いを認め合ったうえで、お互いを知ろうと努めれば、その違いからいろいろ学べます。
たった一つの真実なんてものはありません。
真実はないと思えば、自分が何を信じるかは自分で決めることができます。
それがあなたの生き方となっていきます。
ところで、あなたを例えるとどんな動物になるかしらね?
悦月(えつき)