身体と対話して、過去のしこりを見つける
唾石症。
中学生の頃からたまに発症してましたが、先日久しぶりにまた起こりました。
唾石症は、唾液腺や導管の中に石ができる症状です。病院で調べてもらったら、石は7mm~1cmになっていて、取るなら手術が必要とのこと。
その後、内観して唾石症と対話しました。
以前ひどくなった時、漢方茶とヒーリングで症状が取れました。時間はかかりましたが。その後、数年ぶりの再発です。その間も石はずっとあったかもしれませんが、症状に全く出てきてなかったので、すっかり忘れてました。
ということは、私にとっては石がなかったも同じ。それがまた突然、現れました。
唾石症と対話してみると、以前持っていた観念が出てきました。
それは「話してもわかってもらえない」。
わかってもらえないから話さなくなってしまい、そのうち話したくても話せなくなってしまう。
昔は悩んだんですが、今はほとんど気にしてません。が、その思いがまだ身体に残っているようです。もう一度整理して手放す時期かな?と思いました。
ヒーリングとイメージングで、自分の深い意識を探ってみるといいと出てきたので、それをしました。そしたら、「話してもわかってもらえない」を超えて、「自分がなくなってしまう恐怖」を思い出しました。
自己受容に至るプロセス
今の私は「自分をなくしたい、空気と同じになりたい、森羅万象に同化したい」という思いがあります。
でもそれって、その前に自己受容のプロセスがあります。エゴを受け入れ、手放す準備ができたから、できるだけエゴを透明にしたいという気持ちが出ています。
つまりこの気持ちの裏には「受け入れ(られ)た」という思いがあるのです。
「自分はいていい、あっていい」と自分で思えているか、どうか?ということです。
存在を認めているから、消えてもいいんです。それは、誰かに受け入れてもらえる、認めてもらえるという経験を踏まえてこそです。究極は自分で自分を受け入れてるか?ですけどね。
自分をOKできたから、自分を手放したいと思うプロセスになったんだなー、と思い出させられました。
反対に、10代の頃の自分は「誰からも必要とされない自分」「いてもいなくても同じ存在」という透明人間的な「自分が消える恐怖」をもっていたことを思い出しました。
「”今ここ”にいる自分」を認めてもらえてない。
↓
自分はいてはいけない存在 → 自己否定
この思いは親との関係がもとになっています。目の前にいる自分のありのままが受け入れられていないと感じ、自分の存在が否定されたように感じたのでしょう。
その後「私はここにいる!」を叫び続ける生き方になっていきます。
私が今こうして生きているのも親のおかげですけど。
そこにあっても、気づかなければないも同じ
言葉で書くと、どちらも「自分が消える」ですが、二つの意味は180度違います。
「誰からも(自分からも)認められない透明人間としての自分」と、「自分という存在を受容したうえで、自分を手放していく」というプロセス。
カミサマは人に忘れられると消えてしまう、という話があります。
人がそこに「カミサマがいる」として、拝んだり祀ったりすることにより、そのカミサマは現象化していきます。妖怪なども同じですね。
そこにあるけど、気づかなければないも同じ。
「夏目友人帳」というマンガでは、妖怪や幽霊などが見える少年とそれらとの交流が描かれています。
見える人には存在し、見えない人には存在しない。
あれ?これって量子論の話と同じ?と思った人もいるでしょう。
「観察者がいるから生じる」という話。
病気もそうなんでしょうね。顕在意識や生活習慣はもとより、肉体や気の身体に残っている記憶によって病気になったり不調が生じたり。
病気は心からのメッセージ
「話してもわかってもらえない」は、自分の思い(意思)を押し込めてしこりを作り、「自分がなくなってしまう恐怖」は消えてしまう怖さに「ここにいるよ!」と自己主張するために石(意志)となる。
唾石症は私の心の底に残っていた思いについて教えてくれたと言えます。
自分でこじつけたとも言えますが(笑)
「話してもわかってもらえない」と、「誰にも認識されない透明人間の自分」という過去の自分の思い。自分でこじつけたとしても、自分の記憶の底にこれらが沈殿して残っていたのでしょう。
今までの情報は消えることはなく、脳の長期記憶倉庫の中にしまわれています。唾石症によって、それが今一度ひっぱり出されたようです。今なんでこれがでてきたのかな?と思うと、多分は、私が再びフォーカスし始めている「自己表現」について教えてくれているのだと思います。
唾石症という場にある情報をどう変化させていくか?
それによって唾石症に変化が生じるのか?
そこは自分の体で人体実験でやってみようと思います。